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「高野光咲×文学」 フラプリ2019 インタビュー

やっぱり、好きなものの話をする時、人っていい顔をしてる―。フラワープリンセスに、好きなものについてとことん語ってもらい、彼女たちの価値観や素顔に迫ります。
フラワープリセスひょうご2019の代表プリンセス、高野光咲さんに語っていただくのは、「文学」について。高野さん、一見すると、おとなしそうな文学少女のようにも見えるのですが、話し始めると…止まることを知らないマシンガントークなんです(笑)。

聞き手 兵庫県広報専門員 清水奈緒美
(フラワープリンセスひょうご2011)

 

文学が大好きになったのは、ある先生との出会いです

高野 母が絵本の読み聞かせをよくしてくれて、それで本がけっこう好きになって。幼いころから、ひとりでも読んでいたというか、絵を眺めてたらしいんです。そこから、小学校から中学、高校と国語が好きで得意でした。なかでも、中学校の国語の先生が特に大好きで、その時は、ぼんやりと「国語の先生になりたいなぁ」とか「これから自分は国語の関係の勉強をするんだろうなぁ」と思ってましたね。

清水 その中学の先生はどんな先生だったんですか?

高野 『枕草子』を本当に楽しそうに教えるんです。「春はあけぼのよ~~」って踊りながら教えてくれてました(笑)。本とか国語が嫌いっていうような子たちも、あまり授業で寝てなかったんです。先生が本当に清少納言がお好きみたいで、「ね、ココいいでしょ!!」とか、お好きなのが伝わってくるので、みんな興味持つようになってました。少し生意気言うような子にも、「あなたの常識は世の非常識よ」とか、ぴしっと。言葉の引き出しもいろいろあって。

清水 そんなん言われたら、何も返せないですよね。

高野 その先生が最後の授業で配られたプリントに、「本は、お花にとってのお水のようなもの。お花がお水を吸って咲くように、本を読んで豊かな人生を送ってくださいね」とあって、今も、その言葉を机の前に貼ってます。

 

 

清水 なんか、高野さんって、ようしゃべりますね(笑)

高野 そうなんです、私おしゃべりなんです。みんなに「おしゃべりに見えないな」って言われますけど。同じフラワープリンセスの2人にも「この子、ずっと話してるやん」って思われていると思います(笑)。3人でいると、ずっと話してます。

 

枕草子は、当時のツイート

高野 枕草子は「をかしの文学」って言われているんですけど、随筆、エッセーで、日常のするっと抜けちゃいそうな、ひとつひとつの出来事とか感情にフォーカスして、「こんなとこが“をかし”だ」って。当時は、「風流な人であればあるほどいい」っていう考えがあって。宮仕えしている女性の身で、しかも女流で、文学でこんな大成している人ってすごいです。紫式部とよく比べられるんですけど、清少納言が明るくて、紫式部は控えめ。

清水 へぇ、そういうちがいも。

高野 私は「どっちが好き」とかはないんですけど、「同じ時代にふたりがいたのがすごいな」、「この時、黄金時代だな」と思います。

清水 枕草子の現代語訳、読んだんですけど、ほんまにすごかった。視点とか「細か~」と思いましたもんね。冒頭の部分も、「春は薄紫の朝、夏は蛍の夜」とか、四季それぞれでちがう色を浮かびあがらせてるんですよね。

高野 色もですけど、音とかも描いてるんですよ、その冒頭のなかに。そういうのを全部表現するのがスゴイっていうか。

清水 今とはちがう言葉なんだけど、今の感覚と変わらないこともたくさん書かれてますよね。

高野 「男ってなぜこうなのかしら」とか、今と全く同じですよね。ただのツイートですね。

なので、大学は「学校」ではなく「学部」で決めました

高野 私は、国語が好きで文学部に入ったんですけど、文学が何するか分かってなかったところもあって。国語は割と、「じゃあ、ここには何が書いてあるか、答え合わせしましょう」という感じですけど、文学部では、どんな内容かは分かった上で、「その時代だから、背景にはこんなことが入ってますよ」とか、「この作者はこんな思想をもってます」とか。戦争の時代だと、だいぶ戦争の影響が入ってくるし、作者の懐事情とかも作品に出てきます。

清水 そういう勉強をしてるんですね。

高野 文学作品も私、今は理解できていない部分、あると思うんですよ。今読んで、分からなくっても、後で「ああ、こんなことあるある」「そういうことか」って共感が生まれて分かるようになったり、逆にもっと分からなくなったり(笑)。研究したら作品の見方も変わって、最初読んだ時は「ふ~ん」くらいで終わっていたのも、「この時代にこんなことがあったからか」と納得できたり。私、文学科目を1年で取り過ぎて、もう取る授業がなくなっちゃったんです(笑)

清水 わはは。すっごく楽しいんですね、大学。

高野 もう、楽し過ぎて。「古文とかの変体字を読めるようにならないと卒業できない」っていううわさがあって、字体も勉強しました。読めない文字もあって、むずかしかったです。

 

変体仮名の元になった漢字=字母で「多可能美斜(たかのみさ)」

 

 

メールのやりとりして思いましたけど、
高野さん、全然カタカナ使いませんね

清水 高野さんって、メールでやり取りしていて思いましたけど、何かを説明する時に、なんとなくで言葉選びする人じゃなくって、自分の意図することを正確な言葉で使える人ですね。あと、全然カタカナを使わない。すごいなっと思って。

高野 それは、意識してます。周りの文学部の友達も、すっごく語彙があるので、そういうこともあるのかなと思います

清水 今、文字には触れているけど、本とか作品を読むことが少なくなっていることもあると思うので、「読書が好き」とか「日本語を意識しているのは、すてきだなぁ」と思うんです。

高野 周りも読書好きが多いので。友達とは、読んだ感想を言い合ったり、本のすすめ合いとかもあって。「これめっちゃいいから読んで」って言われて読んでみたら、「え?これおもしろいの?すごいな」ということもありますよ。今、分からないのもおもしろいし、研究したり、後から読んで「おもしろい」と感じることもあるだろうし、最後まで分からなくっても、それはそれでおもしろいです。

清水 なるほどね。私は、広報専門員をするまで、あまり日本語って意識したことはなかったんですけど、たまたま同僚が、国語が得意で、正しい日本語を使う人だったんですよ。そこから日本語を意識するようになったら、ちょっとレベルが上がったかな…。そうすると、メールでもなんでも、やっぱり言葉で生活しているから、なんか生きやすくなりましたね。

高野 へぇ。確かに、フラワープリンセスの出務で、イベントの進行でインタビューがあって、「できるかな」って思ってたんです。でも、それまでのプログラムとか見ていると、聞きたいことが頭の中でまとまってきて。なんとなく思ったこととか、感じたことを言語化できると、自然と質問できるというか。やったことないインタビューもできたのかな。

 

 

清水 日本語が得意だったら、フラワープリンセスのブログやインスタの発信もやりやすくないですか?

高野 そうですね。そうだと思います。SNSも「絶対にやらないといけない」っていうわけじゃないんですけど、ブログもTwitterもインスタグラムもしてます。「それぞれ、利用している層がちがう」と思ったので、「だったら幅広くいろんな人に、自分達の活動を見てもらえるように、全部のSNSをしようかな」と、今、がんばってます。

 

応募のきっかけは?

清水 もともと、なんで応募しようと?

高野 母が、たまたまフラワープリンセスの募集ポスターを持って帰ってきたのがきっかけでです。最初は、どんなことするのか分からなかったんですけど、「まちなみガーデンショーってのがある」、「お花の生産者の方に会えるんだ」とかいろんな活動があるのを知って、「すごい楽しそう」と思って。母も、「やってみるだけ損はないよ」って言ってくれて。選んでいただいたんですけど、最後まで驚いていて。今もまだ驚いてます。

清水 最終審査の、特技披露では何やったんですか?

高野 グロッケンシュピール(鍵盤打楽器)を演奏しました。私、吹奏楽をしていたので。「花は咲く」を演奏しながら、最後のフレーズを歌いました。

清水 いいね。私、ヒンディー語を専攻していたので、最後、ヒンディー語を披露しましたよ。

高野 ええっ(笑)。

清水 今までで印象に残るお仕事は?

高野 神戸まつりで、「プリンセスさ~ん」と声かけてもらったのがうれしかったですし、栗研究大会の時に、「栗はそのまま食べても美味しいんだけど、スイーツにして食べるとさらに美味しいですよ」って、レシピを5つくらい教えてくれたんです。生産者の方がいるっていうのが本当に分かって。顔が思い浮かぶ人ができて、なんか「今度、栗を見たら買いたいな」「栗をたくさん食べたいな」って思ってます(笑)。

清水 じゃぁ、最後に、活動への意気込みは?

高野 先輩たちはみなさん、快活で、きちっとプリンセスをされています。いろんな地域の方とかお会いして、お話するのがとっても楽しいので、親しみをもってもらえるようなプリンセスになりたいと思います。慣れていくうちに楽さも増えてますが、慣れていっても、初心を忘れないように活動したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 


撮影で訪れたのは・・・

尼崎市の近松公園

尼崎は、“東洋のシェイクスピア”と言われる劇作家・近松門左衛門が晩年を過ごした地です。

近松は、京都、そして、大阪に住んでいましたが、尼崎の広済寺の住職と親しくしていたそうです。母親の法要もこの広済寺で行い、近松自身もこのお寺で眠ることとなります。また、作品『五十年忌歌念仏』には、尼崎の地名も出てくるほど、尼崎は近松とゆかりの深い地です。

近松公園は、春は桜や梅、秋は紅葉など四季折々の自然、そして、小川や池、庵のある憩いの場所。訪れると、高速道路から1kmほどしか離れていないのが信じられないくらい、静かな時間が流れていました。

 


公園入り口には、近松の銅像が設置されています。公園のそばには財団法人近松記念館があり、木版や近松が愛用した机、年表などの貴重な展示資料から、その足跡をたどることができます。

 

→近松公園(外部サイトへリンク)

 

近松が眠る広済寺

 

  

広済寺は妙見様をお祀りする日蓮宗のお寺です。お寺内には、「近松部屋」という、近松が創作したとされる六畳二間の建物があったと言われています。

近松は、人生で150以上の作品を作り、その作品は今も、文学、歌舞伎、オペラ、映画などさまざまな形で愛され続けています。
近松作品を上演する際は、成功祈願のため、演劇関係者が訪れるそうです。
ということで…「偉大な劇作家に合掌」「豊かな文学生活が送れますように」。私たちも近松のお墓に手を合わせます。

高野さんは、大学の研究のため、このお寺や近松記念館を訪れたことがあるそうです。この機会に私も、作品の名前だけしか知らない「曾根崎心中」、「冥途の飛脚」あたりを観て、名作のおもしろさに触れてみよっかな。

 

→広済寺(外部サイトへリンク)